51日間続いたイスラエルの「プロテクティブ・エッジ」作戦が、ガザとの無期限の停戦合意に至ってから、約2ヶ月が過ぎた。私の住むテルアビブにも一日に何度かガザからロケット弾が飛んできて、サイレンの音を聞いてはシェルターに避難するという生活が続いた。iPhoneに入れている「RedAlert」という、ロケット弾が飛来する度にアラームで教えてくれるアプリは、「イスラエル全土」と設定しておくと、24時間常に鳴りっぱなしだった。ガザからのロケット弾は、イスラエル軍のアイアン・ドームという兵器で着弾する前に大半が迎撃されるのだが、その迎撃音は花火が打ち上がるときの、あの「バン・バン」という音に似ており、停戦に至ってからもしばらくは、大きな音を聞く度に自然と体が強ばった。停戦後、休暇で出かけたイスタンブールで、ボスポラス海峡に美しく打ち上げられた花火さえも、心から楽しむことができなかったことを思い出す。また、シャワーを浴びているときも、車を運転しているときも、常にサイレンが鳴る気配を感じながら生活していた。風の音が、サイレンの音に聞こえることもあった。
気づけば、そのような、ある種トラウマティックな症状は癒え、風の音や花火の音が、「サイレン」や「ロケット弾」を思い出させることもなくなった。ガザとの戦闘中、仕事は通常通りこなしていたし、怯えからホームシックになるようなこともなかったが、そのごくごく日常の風景の中に、「サイレン」だの「ロケット弾」だの非日常的なものが見え隠れするという独特の緊張感が、自分の心と体を「分かりにくく」疲弊させていたように思う。
一方でガザの様子に関しては、ガザにいたわけではないので、日本にいる人たちと同じような距離感で、心を痛めていたとしか言えない。イスラエル軍がガザ市民に対して行ったことを擁護するつもりはさらさらないが、お互い暴力を振りかざす以上、どちらかの側にだけ寄ることもできない。むしろ、自分がどちらかの側に住んでいる場合、こちら側(イスラエル)が相手に何をしているかよりも、相手側(ハマス)に自分たちが何をされているのか、される可能性があるのかということが、自分の身を守るためにより近々の「関心事」であって、余裕がない中では相手側の犠牲者に気を配ることは二の次になった。私はイスラエルで、ロケット弾に恐怖を感じ、サイレンの度に家族の安否を心配するイスラエルの人たちを見た。イスラエル人でも、反パレスチナでもない、たまたまそこにいた日本人の私が感じた、昼夜問わずロケット弾攻撃から市民を守ってくれたイスラエル軍への感謝と、相手側の状況に心を配る余裕のなさは、今回の経験をするまで私が考えたことのなかった新しい感情だった。
(文 鳥居 亜由美/2010年スタディ・ツアー参加者、テルアビブ在住)