〜分断されたヨルダン川西岸地区〜
この不思議な地図をご覧ください。これは1967年「6日戦争」以来50年にも渡ってイスラエルによって占領されているヨルダン川西岸地区(以後、西岸地区)の複雑で不可思議な実情を示すもので、ここに住んでいるパレスチナ人たちの苦しみが推測できる地図です。
緑の部分はイスラエル領土、真ん中のそら豆のような形をしている西岸地区と左下の海沿いの細長いガザ地区が、将来パレスチナの国土になる部分です。
二つ合わせても、約5800km2、日本の小さな1県くらいで、それがご覧のように、A, B, Cに細かく分類(分断?)されているのです。
A地区:西岸地区の18%を占める濃い茶色の部分、イスラエルは一応撤退していて、行政も治安もパレスチナ暫定自治政府が担います。エリコや、ラマッラ、ナブルスなどの大きい都市が含まれています。
B地区:22%を占める薄い茶色の部分で、行政はパレスチナ、治安はイスラエルが権限を持っています。
C地区:60%の白い部分で行政も治安もイスラエルが実権を握っています。
今回はとくにC地区のことをお話ししましょう。ここには、約30万人のパレスチナ人と125の入植地と約100の“前哨地”(注1)に住む33万人のイスラエル人入植者が住んでいます。
注1:将来の入植地建設の拠点とするために、入植者が当局の許可を得ずに、勝手に土地を占領し、バラックを建て、農地を開拓している場所
C地区は、入植地の安全と拡大のため、軍事演習地や水資源確保および経済的な利益のためにA地区とB地区を取り囲むように設定されており、西岸地区そのものを細かく分断しています。しかも水道、電気、ガスなどのインフラも整備されておらず機能しないので、日常生活での不自由を強いられています。
家屋や建物の建設も、井戸掘りも、道路整備もすべてイスラエル軍当局の許可が必要です。土地接収のために、「建築許可がない」という口実で破壊される家屋も少なくありません。そもそも建築許可はまずもらえません。その上写真のように道路がコンクリートや石などでブロックされていたり、さらに検問所や壁があちこちにあったりするので、2801の市町村が分断されており、近隣の村や町との行き来も難しいのです。
働きに行くにも、学校へ行くにも、親戚に会いの行くのも大変な困難を長年強いられている人々と、増加しつつある入植者との争いや小競り合いは、この地域ではめずらしくありません。
最近起きた事件をいくつかご紹介したいと思います。
* 集団的懲罰:昨年末、一つの入植地で明らかに放火とみられる火事があった。その後イスラエル軍は近隣のパレスチナの村、デイール・ニツァムに集団的懲罰を与えるために、巨大な石で道路を封鎖し、パトロールを強化して3日間村の出入りを禁止した。まだ犯人は特定できていないし、この措置も非公式のものである。
* 17歳の少年の死:12月、ラマッラ近くのベイト・リマ村でアハマド・ハゼムは26歳のもう一人の青年と共に銃撃された。アハマドは死亡、もう青年は重傷である。イスラエル軍の週に1,2度の急襲の時のことだった。青年たちは数人で石を投げて抵抗していた。この投石による被害はなかったので、発砲は正当化されないのだが。青年たちは催涙ガスや実弾による反撃が始まってからすぐに逃げ出したが、グループの最後尾にいたアハマドは被弾して命を落としてしまった。
* “家屋”破壊の新しい波:この地域ではイスラエルによる土地の“国有化”を目指した接収政策がここ数年強化されてきた。しかし、今年になってそれが加速し、1月だけで73の住居、51の建物が破壊され161人の未成年を含む284人のパレスチナ人がこの寒空に行き場を失っている。しかも、この人々のために人権団体が建設した急ごしらえの家屋さえもすでに37戸も壊されている。
このようにC地区に住むパレスチナ人たちは経済的にますます貧しくなり、自立できずに、援助に頼らざるを得なくなります。こんな環境が子どもたちに、深刻な悪影響を及ぼさないはずはありません。いつも犠牲になるのは子どもたちです。学校へ行かれなくなったり、心理的に非常に不安定になって攻撃的になったり、夜尿症になったり……心の傷は計り知れません。
この子どもたちに、安心と夢を与え、未来への「平和の希望」を与えるには、どうしたらよいのでしょうか? 私たちに何ができるのでしょうか?
早急にイスラエル・パレスチナ双方の直接交渉が再開され、一日も早く、占領政策の終止符が打たれることを祈ります。正義と公正に基づいたイスラエルの安全とパレスチナの人権が保証されない限り、この地に平和は実現できないのです。
(文 井上弘子/当法人理事長)