私は今年6月末から7月末までの約一ヶ月間、ヨルダン川西岸地区南部のヘブロンのエクセレンス・センターという語学学校で、小学生から社会人までの生徒に英語を教えるボランティアをしました。
ヘブロン―アラビア語では、アル・ハリール(AlKhalil)(*1)と呼ばれる―という町は、ヨルダン川西岸地区の中でも少し特殊な地域です。パレスチナ最大のユダヤ人入植地、キリヤット・アルバアが近くにあることもあり、ユダヤ人入植者による暴力やパレスチナ人の抵抗運動が激しい地域の一つです。イスラエルとの情勢が悪化した2015年10月以降に知り合いを亡くしたという人も、私のホストファミリーを含めかなりいました。また住民のほとんどが敬虔なムスリム(イスラム教徒)、しかも保守的なことでも有名で、そのためイスラエルによる監視もひときわ厳しいといわれます。実際私の滞在中にも、友人の家がイスラエル兵によって踏込み捜査されたり、幾度か町が軍に包囲されたりして、自分の家の出入りさえできなくなったこともありました。
ヘブロンには、入植者の脅迫に毎日さらされるベドウィンの村スーシーヤや、イスラエル軍による若者の一斉逮捕が繰り返される近郊の難民キャンプ、2002年のインティファーダや15年秋から冬にかけて多くの犠牲者を出したことで知られるH2(*2)とシハダ・ストリート「殉教者通り」など、紛争による衝突や暴力行為が日常的に起きている場所は、ほんとうに多くあります。
今回ヘブロンでホームステイをすることができたのは、2013年のスタディーツアーで出会った現地の友人たちや、現地に留学経験のある友人のおかげでした。
1カ月を過ごして最も強く感じたことは、ヘブロンには、生き生きと存在感あふれる日常があり、同時にその日常を破る占領があるということでした。家族、友人、親族など、コミュニティーの絆の強い環境で過ぎてゆく時間の豊かさと、容赦なくそれを破る占領と抵抗の激しいミスマッチ。一日一日があまりに豊かで朗らかである分、突然勃発する暴力沙汰とのちぐはぐさに戸惑い、うまく消化できない気持ちを抱えながら、それでも非常に充実した幸せな1カ月間でした。小学生たちは可愛らしくてエネルギッシュ、新しい刺激に飢えて目をキラキラさせ、遠い日本から来た私に興味津々でした。学ぶ意欲が高く、教えるそばからぐんぐん伸びていく子どもたち。紛争やパレスチナの社会問題などを、私と同世代の若者たちとディスカッション。興味深く、やりがいがありました。彼らは授業の後もずっと私を追いかけてきて、熱心にアラビア語を教えてくれたり、家や家族の結婚パーティーに誘ってくれたりしました。一方で、たまたま授業で見た映画でホロコーストに触れるシーンには「先生はイスラエルのプロパガンダを擁護するのか」と質問があったり、ユダヤ人大虐殺に賛成する意見が出たりと、状況の複雑さや難しさも肌で経験しました。滞在中はイスラム教の宗教行事、ラマダンの真最中でした。祈りを欠かさない敬虔なムスリムであるホストファミリーへの敬意をもって、私も、彼らと共に日中の断食と日没後のイフタール(断食明けの晩餐)に参加しました。ファミリーも私を大切にしてくれました。彼らには私がクリスチャンだと伝えてあったのですが、わざわざベツレヘムまで行って十字架の飾りを買ってきてくれ、温かいもてなしに感動しました。保守的で宗教熱心であることは、排他的と同じではないと教えられた気がします。また、私がヘブロンで出会ったほとんどのパレスチナ人が、2015年10月以降悪化した対イスラエル情勢にもかかわらず、「同じ聖書の民であるユダヤ教徒に対して憎しみはない」と言っており、イスラエルの政治と宗教を区別して語る人が多く見られました。このような市民レベルのつながりは沢山あります。内装工事が仕事のホームステイ先の父親は、イスラエル人のお得意さんが沢山いて、「だから自分は少しヘブライ語が話せるんだ」と得意げに話してくれましたし、若者の中には、「会ったことはないけれど、インターネットを通じてイスラエル人の友だちがいるんだ」と言う子もいました。
紛争に関するニュースはほぼ毎日あり、とくに入植地周辺での暴力沙汰は日常茶飯事でした。子どもを含むパレスチナ人一家が過激な入植者に殺害され、その報復にパレスチナ人男性が無関係な15歳のユダヤ人少女を刺殺、こんどは入植者がパレスチナ人の車を銃撃した、検問所で若い妊婦が殺された、などなど……。入植地周辺では10代のユダヤ人の子どもたちがマシンガンを肩にかけて歩いているのを見かけたものです。
一方で、日本ではめったに見られない暖かさや豊かさを感じることがあります。休日、風が涼しくなる夕方に、緑豊かな庭に家族やご近所さん、友人たちと座って、庭でとれた果物とミントティーを片手に談笑するひととき、小さい子どもたちが親戚や近所の人々に見守られて無邪気に遊んでいる様子を目にするときなどです。活気ある市場で人々が和やかに談笑している風景を見ると、「こんなに平和なのに!」と感じることもあります。
平和な景色を引き裂くように、醜いコンクリートの壁や鉄線に囲まれたチェックポイント(検問所)、鉄の監視塔や銃を持った兵士の姿があります。ある日ホームステイ先の女の子と談笑していた時、上空を戦闘機が通るような轟音が聞こえました。その後ボランティア仲間から「イスラエルがガザでピンポイントの空爆を行ったらしい」とのメールが入ったので、その子に見せました。日頃から気丈な彼女は、いつもは紛争のニュースを聞いても「またか」という感じに肩をすくめるだけなのに、その時は急に泣き出し、「おじいちゃんはガザ出身だから、向こうに親戚や知り合いがいる。心配だ。西岸とガザが分断されて溝が深まっているのがつらい」と言っていたのが忘れられません。
ジェニーン難民キャンプに行ったり、カフル・カドゥームの村でのデモを視察したりして、非武装の市民にゴム弾や実弾までもが使われる現実を見られたことは、貴重な体験でした。昼は元気な子どもたちと教室で過ごし、夜は大好きな友人たちとカフェでおしゃべりをして過ごしたヘブロンでの1カ月、ほんとうに幸せでした。彼らが一日も早く平和を獲得できるよう、考え続けたいと思います。
スタディーツアーに参加しなければ、ヘブロン滞在の決断には至らなかったかもしれません。「聖地のこどもを支える会」の皆さん、ツアーをとおして出会ったスタッフや日本、イスラエル、パレスチナの友人たちに改めて感謝したいと思います。
注釈
(*1)アル・ハリール:「神に愛された人」という意味で、ヘブロンに滞在したアブラハムの別名(創世記)
(*2)H2:ヘブロン市は、パレスチナ自治政府が統治するH1地区と、入植地があるのでイスラエル軍が統治するH2地区に2分される。H2にも多くのパレスチナ人がもともと住んでおり、入植者との間に衝突が絶えない。
(文 西村 まゆき/
2013年スタディー・ツアー参加者、大学4年生)