少し前のことになりますが、今年5月21日の朝刊に、イスラエルの国防相が「首相と対立し辞意」という記事が載りました。ネタニヤフー首相が、対パレスチナ強硬派でアラブ系イスラエル人の排斥を主張する極右政党「イスラエル我が家」のリーベルマン党首に政権への参加を要請し、国防相への就任を打診したのを受けての辞意表明でした。ヤアロン国防相は2002~05年にイスラエル軍参謀総長を務めた後、08年に右派政党リクードに入党してすぐ国会議員になり13年3月、国防相に就任しました。彼はヨルダン川西岸へのイスラエル人の入植強化に賛成しており、パレスチナ和平に積極的とはいえない人物です。そんな人でさえ反発した極右政党の入閣要請でしたが、結局リーベルマン国防相が実現し、「イスラエル史上最も右寄りの政権」と呼ばれる内閣ができました。中東和平に積極的なわけがなく、現に6月3日にパリで開かれた和平交渉仲介国など関係諸国による会議にも、フランスによる提案の段階から反対していました。
ヤアロン氏は辞意表明の際、「イスラエルとリクードを過激で危険な要素が支配している」と発言しました。ストレートな言い方で、かなり強烈な警告ですが、それよりもっと驚くべき発言が軍のナンバー2からありました。ヤイル・ゴラン副参謀総長によるものです。
彼は「600万人のユダヤ人が抹殺されたホロコーストを思う時は、その惨禍を繰り返さぬよう教訓とすべきです」と述べたうえで、「ヨーロッパで70~90年前に起きた恐るべきことの名残が今、我々の中にも見出せることに恐れを感じる」と語ったのです。つまり、イスラエル兵が時にパレスチナ人を手荒く扱うことなどを例に、現在のイスラエルに、ホロコーストの実行者であるナチス・ドイツを連想させるものがあると言ったに等しいのです。
被差別の歴史をくぐり抜けてきたユダヤ人には、自分たちこそ被害者の中の被害者であり、最大の加害者であるドイツ人と比較されるなどとんでもないと激高する人が多いと思われます。現にネタニヤフー首相は「ナチスとの比較は恥ずべきことだ」と強く非難しました。このような傾向に対してはイスラエル人の中にさえ、ユダヤ人が被害者として別格であるかのように考えるのは問題だと、批判的な人たちもいます。
しかし、欧米の人々の間には、ホロコーストを防げなかったという負い目から、「反ユダヤ主義者」と言われることに過敏に反応する空気があります。そのため、イスラエルの政策を批判したのに対して、それがユダヤ人差別とは無縁のものであっても「反ユダヤ主義」と言われると腰が引けてしまう、という傾向があったことは否定できません。そのことが、対パレスチナ政策で行き過ぎと思われることがあっても批判の矛先をにぶらせる面があると、筆者は思います。
ハンナ・アーレントというドイツ出身のユダヤ人哲学者がいました。1961年にエルサレムで開かれた「アイヒマン裁判」についての彼女のレポートが、ユダヤ人社会に大きな反響を呼びました。2012年制作の映画「ハンナ・アーレント」が最近、改めて話題になっているようです。
アイヒマンはナチス親衛隊の将校としてユダヤ人の絶滅計画・強制収容所送りに指導的立場で関与したとして逮捕・訴追された人物です。1961年12月に死刑判決が下された裁判のレポートで彼女は「悪の凡庸さ」という表現を使って、アイヒマンはほかの人の立場に立って考える能力に欠けた単なる官僚だったと書きました。ナチスによる巨悪が、ユダヤ人を憎悪する悪魔のような人物ではなく、凡庸な人間によって担われたという説明。これがユダヤ人の多くから、大量殺戮が凡庸なものでナチスの犯罪を軽く見るものだと受け取られ、非難の嵐が巻き起こったのです。さらに、アーレントが「無用の人種」というものが政策として決められ、官僚によって大量殺戮が実行に移されたという悪を、ユダヤ人に対する犯罪というより人類に対する犯罪であるという趣旨のことを書いた点が、ユダヤ人被害者たちにとってはあまりに普遍的すぎる視点だったのです。まさにユダヤ人は「被害者の中の被害者」という意識を逆なでするものだったのではないでしょうか。
以上のような事情を考えるにつけ、ゴラン氏の発言がいかに勇気あるものだったかと驚くのです。この発言はホロコースト記念日(今年は5月5日)の式典で、政治家たちも列席する中で述べられました。ゴラン氏は「ホロコースト記念日にこそ我々は、指導者の責任について自己省察し、他者に対しどう行動するかを根本から考え直すべきです」と呼びかけました。それだけなら一般的なモラルを強調する演説ですが、ナチスが猛威をふるった時代の空気が現在のイスラエルにも感じられると言ったのですから驚きの目を向けられ、議論を呼んだのです。
発言の背景には、パレスチナ人の若者がイスラエル人を襲う事件が相次ぐ中、テロ容疑者や不審とみられたパレスチナ人が簡単に殺されることから、イスラエル側は過剰反応ではないかという懸念が生じていることがあります。海外からは、人権団体がイスラエルは殺傷力の高い武力の使用を中止すべきだと訴えたり、ある国の閣僚がイスラエルは法定外の処刑をしていると非難したりする動きが出ています。
一方、イスラエル軍では参謀総長が3月末、若い兵士たちに対し、襲撃容疑のパレスチナ人を取り押さえるのに過剰な武力を使わないよう警告する見解を発表しました。ヨルダン川西岸南部のヘブロンで、兵士の一人が負傷して動けずにいたパレスチナ人の襲撃犯を撃ち殺した事件を受けてのものです。その兵士は殺人の罪に問われました。軍事・治安行動に際しての規範を守らない将兵の行為を見逃さず訴追する点で、イスラエル軍の公正さは世界に誇れるものだといえます。ところが、国会議員の中からは参謀総長への怒りの声があがったそうです。社会全体に、不安の高まりとともに不寛容の空気が強まり、暴力への過剰な対応が受け入れられやすくなっているようです。市民が暴徒となって怪しいとみなした人を襲う事態が懸念されるようになり、それが現実になった例も報じられています。去年10月、イスラエル南部ベエルシェバで兵士などが殺傷される事件が起きた際、居合わせたエリトリア人の若者がパレスチナ人襲撃犯(死亡)の共犯と勘違いされ、警備員に撃たれたほか、イスラエル人の群衆から頭を蹴られるなどの暴行を受けて死亡した、というものです。
ホロコーストを繰り返させないという意味で、ユダヤ人が安住の地を求める権利を否定できず、イスラエルを抹殺せよという主張にくみすることはできません。ただし、ユダヤ人の被害を強調し過ぎて生き残るためには何でも許されるというような論調があれば、それにも同調することはできません。パレスチナ人にも安住の地を求める権利があることを、イスラエル人の側も忘れてはならないはずです。
パレスチナ系米国人の英文学者、故エドワード・サイード氏がイスラエルを評して記した次のような言葉があります。
「自らが犠牲を強いられたからといって、他者に犠牲を強いることを継続できないはずだ」イスラエルの人々が「他者に犠牲を強いている」という意識を持てたら、状況もずいぶん変わるのではないでしょうか。
(文 当団体理事 村上宏一/元朝日新聞エルサレム特派員、中東支局長)