▲写真:イスラエル・パレスチナ人との記念写真
私たちが当たり前に過ごすこの「日常」というものが、自分の大切な「居場所」がある日突然失われた時、私たちはどのように思うのだろうか。怖く、悲しく、怯えながら社会の中で生きていかなければならないのだろうか。先進国に生まれ育ち、故郷を追われたこともなくマジョリティとして生きてきた私には、日常と自分の大切な居場所を失うことがどういうことなのかわからない。家族や友人を突然失うことへの恐怖も感じたことも、家を突然襲撃されたこともない。大切なものは失った後に気付くように、失ったものにしかその怖さと当たり前な日常の尊さは分からないのだろうか。
パレスチナのホストファミリーの一人が、携帯で流れるニュースの画面を私に見せながら「今日死海の近くで、イスラエル兵に石を投げた少年が射殺されたんだ。」と言った。私は、「これは毎日起こることなの?」と質問した。彼は私に「これが僕らの日常だよ。」と答えた。日常であるが故に、一つの事件に感情移入などしていられない、どこかやるせなさを覚えているのだろうか。彼の表情から私はそう感じられた。私にはその全ての気持ちを感じ取ることはできなかったが、高校時代から憧れる、中東・アフリカの紛争地域で元兵士の武装解除をする瀬谷ルミ子さんが自著の中でこう述べていたのを思い出した。「紛争とは、それまでの日常が失われるのと同時に、それまで非日常だったことが日常に変わるプロセスでもある。そして、非日常が始まったと実感する頃には、その流れは個人の力ではどうしようもないものになる。」のだと。「紛争」というものが身近にある時、人はどのような心境に置かれるのだろうか。毎日人が殺されるのが日常であると、それが非日常であるはずなのに知らない間に日常化してしまう。今年で7年目となるシリア内戦がその結果を物語っている。
今までの人生、突然帰る場所を失ったことはない。だからこそ、今の自分が置かれている環境がどのように尊いものなのか感じづらいのだろう。訪れたベツレヘムにあるデヘーシャ難民キャンプでは人々が普通に生活をしているように見えた。だけれども、環境が整備され、住みやすくなっていくほど「もうあなたの居場所は失われたのだ。」と、元の居場所に帰れないことを暗示しているようにも思える。イスラム教の悲しい伝統である名誉殺人から逃れた孤児たちは、生まれたばかりで無実な赤ちゃんであっても6歳になればシスターたちの元を去らなければいけない。彼ら彼女らが成長した時、社会や国に対してどのような思いを抱くのだろうか。強く生きていけるのだろうか?人が生きていく上で、誰かに受け容れられる「居場所」がどんなに欠かせないものなのか、その尊さに今まで私はなぜ気づきもしなかったのだろうか。「おかえり」と「ただいま」の言えるような居場所がなく、そこにいてはダメだと言われる人などいるべきではないはずなのに、居場所がどのように生きる上で大切なものなのかをこの国の現実から嫌でも考えさせられた。
被害者であり、国際社会で”可哀想“だと認識されているパレスチナ人は生死の狭間にいると言っても過言ではない状況下に生きている。今の若い世代は直接的に紛争の経験はないにせよ、親やその上の世代から、かつて一家を追われて難民となった話や通っていた学校付近がインティファーダで襲撃された跡を目の当たりにしているため、今現在も分離壁を始めとする様々な制約と支配下で生きていることに疑問を持たずして生きることの方が難しい。ニュースを見せてくれたパレスチナ人の友人は顔色一つ変えずに私に、問題の原因を歴史的経緯から説明してくれた。この国がどのように入植され、支配が進み、家や居場所を追われたのか。平和ボケしている日本人の私の当事者意識の欠如と知識不足を決して馬鹿にすることなどなく、丁寧に教えてくれた。彼らがどのような悲しみを抱えているのか、どのような痛みを心に感じているのかを少しでも知ることが私のツアーの目的だった。だけれども、彼らは痛みを知っているからこそ笑っていられるのだろうか?彼らは家族や友人との時間を大切にし、彼らの置かれている現状を忘れるほど、同じ楽しい時を分かち合うことができた。日本という平和で守られた国に住む私よりも家族や友人と笑い合い、日常を大切にしながら目の前の小さなことにも幸せを感じていたように見えた。私にはそれが羨ましくも思えた。
気になった私は、ベツレヘム大学で仲良くなった友人に正直に聞いてみた。「なんでパレスチナ人は権利が制限されながら生きているのに、笑っているの?私は勝手にパレスチナ人=可哀想というレッテルを貼って、毎日悲しみの中で泣いているのだと思い込んでいた。」そうすると彼女は、「逆に笑っていかないと生きていけないのよ。周りの家族、友人と笑うしかない。毎日ご飯があり、家族がいて、友人がいる当たり前の日常が送れるだけで幸せ。世界には飢餓で死にゆく人もいるのだから、私たちは幸せよ。」と私に言ってくれた。物質的豊かさを追求する時代であり、先進国に住む私が失ったものなのか、触れ合ったパレスチナの人々の笑顔の一つ一つが美しく、そして尊く見えた。日常を失う怖さを知っているからこそ、家族や友人との繋がりは一層凝固なものになるのだろうか。私は彼らがかつて失った当たり前の日常を当たり前に享受しているからこそ、そのありがたみと尊さを知らないまま今まで生きてきたのだと思う。私はその地に降り立ち、人々と交流したからこそ自分の先入観に気づき、それを打ち破ることができ、彼らから見失ってはいけない大切なものをたくさん教えてもらった。
国際協力の世界に関心を持ってから3年が経つ。初めて中東に降り立ち、それまで訪れてきた発展途上国の国々でも「支援対象とされる人々」とたくさん触れ合ってきた。いつしか国際協力は「協力」であるはずなのに「与える」「与えられる」の関係性が固定化している。私は国際協力に携わる上で忘れてはならないのは、当事者への尊敬の念であると思う。確かにパレスチナ人は”可哀想”な存在かもしれない。家を追われ、生きる場所も失い、今でも様々な権利が制限されている。だけれども、私には憧れる同い年の友達がいる。日常の大切さを忘れない、笑顔の溢れる温かいホストファミリーがいる。そのことを知った時、日本という安全な国に生まれてよかったとは思わなかった。日本人という中立的な視点からこの複雑な問題を解決するなんて理想に過ぎないし、可哀想な人達のために何かができると思い込んでしまうことがとても怖い。彼らの置かれている日常と私の日常はあまりにも差がある。だけど、それでいて彼らをかわいそうだと決めつけるのは違うのではないだろうか。日本の恵まれた環境に感謝するのはもちろん大事だが、それ以上のことを考えることなくして前に進むことはできない。彼らが欲しいのは同情や置かれている環境に感謝する気持ちではないはずだからだ。今までの私は誰かに学校を襲撃されることもなく、戦争はすでに終わった遠い過去のものだとさえ思った。今もなお世界のどこかで人々の犠牲が存在しているというのに、他人事として置き換えたとしても何も不利益を被らない。滞在していたイスラエルの隣国シリアでは、到着日の数日前にまた大きな空爆が起きた。「平和」が何か、私にはわからない。当事者ではないのに、それについて考える資格さえないのかもしれない。
しかし、私はこの12日間で国際協力を仕事にすることをなぜだか心に確信できた。ずっと携わり続けた国際協力という分野に将来も自分が関わり続けていく自信と覚悟があるのかひたすら迷い、考えてきた。だけど、理由は単純なのだと思う。私は彼らと共にあり続ける自分を選びたいと思うから。きっとこの国を純粋に「好き」になれたのだろう。またイスラエルとパレスチナに帰ってこよう。彼らに数年後、成長した姿で再会して温かい家族とちょっとだけ飽きかけていたけれど今は恋しいファラフェルを一緒に食べよう。一人一人の顔が思い浮かび、ワクワクするこの気持ちほど幸せなことはあるのだろうか。国際協力はそれでいいのかもしれない。
私にできることがなにかはまだ明確にはわからない。NGO職員でも国連職員でもジャーナリストでも、はたまた会社員なのか、自分にあった形はこれから模索していく。どんな形であれ、イスラエル・パレスチナの抱える問題に彼らと共に向き合っている自分でありたい、そう強く思えた。現地に訪れ、彼らと実際に触れ合い、私は彼らに何ができるのだろうか12日間毎日考えてきた。だけどきっと何もできないのだろうし、外部の日本人の私が背負えることなどできない複雑で大きな問題であり無力感さえ覚えさせられる。しかし、私は傍観者なのではなく彼らと共に当事者に近い人間であることを選びたい。そう思えるようになる人が一人でも増えていくことが、微力ながらも平和への架け橋になるのかもしれない。そう信じて、自分ができることをこれから日々の中で模索していく。まずは、イスラエルとパレスチナで撮った素敵な写真と現地で感じたことを自分のSNSでシェアしていくこと、周りの家族や友人とこのスタディツアーで考えたことを話すこと。中東は怖い地域なのではなく、私たちが日々の忙しい中でいつしか失ってしまった「日常」と「居場所」の大切さを教えてくれた、私の大好きな笑顔が溢れる場所なのだと伝えていく。「百聞は一見に如かず」という座右の銘を忘れず、今の私にできることを考え実践し続けていこうと思う。胸をはって数年後、彼らにまた再会できる日を楽しみにしている。
(文 吉田 梨乃/
2018年スタディー・ツアー参加者、大学2年生)