村上 宏一(当法人副理事長・元朝日新聞中東アフリカ総局長)
今年は1948年5月のイスラエル建国宣言75周年にあたります。裏を返せば、住んでいた土地を追われた難民を多く抱えることになったパレスチナ人にとってはナクバ(大参事)75周年であり、未だに自分たちの国を持てていません。一方、両者の和解を目指してパレスチナ自治に道をつけた1993年9月のオスロ合意から30年の年でもあります。この節目の年に「聖地のこどもを支える会」は、特定非営利活動法人(NPO法人)の資格を取得してから20年目を迎えました。この機に、当法人の重要な事業の一つ、イスラエルとパレスチナの若者の交流を日本で図る「平和の架け橋プロジェクト」を、コロナ禍による中断をはさんで4年ぶりに再開します。プロジェクト参加者の物語からは、建国、ナクバ、オスロ合意の歴史が見えてきます。
「ヨルダン国籍」のパレスチナ人
「架け橋プロジェクト」は、イスラエルとパレスチナの若者を日本に招き、日本の若者も含めた共同生活を通じて交流を図ろうという活動です。現地では両者の間は分離壁で隔てられており、イスラエル人には「向こう側」に住むパレスチナ人への関心は薄く、パレスチナ人にとっては、接することのあるイスラエル人といえば境界の検問で見張っている兵士ぐらい、と言っていいほど。語り合い、お互いを知る交流の機会はほとんどありません。その機会をつくるという意味が、このプロジェクトにはあります。
今回やって来る参加者は10人。イスラエル側はユダヤ人4人、アラブ人1人、パレスチナ側はヨルダン国籍2人(東エルサレム在住)、ヨルダン川西岸から2人、ガザから1人。双方から5人ずつと単純に表現できません。理由は75年前にさかのぼります。
1948年5月にイスラエル建国が宣言されると、これを認めない周辺アラブ諸国が攻撃を開始しました。第1次中東戦争です。アラブ人(パレスチナ人)の中には、戦争はアラブ側の勝利で終わりすぐ戻れると思って家を離れる人や、デイル・ヤシンという村でのユダヤ人によるアラブ人虐殺事件の影響で恐怖から逃げ出す人がいて、結果的には約70万人が故郷に戻れず難民となりました。49年7月までに停戦が実現し、この時の停戦ラインのイスラエル側には多くのアラブ人居住区も含まれ、イスラエル国民とされました。というわけで、イスラエル側の参加者にアラブ人がいるのです。
一方、停戦ラインで区切られたヨルダン川西岸は東エルサレムを含めヨルダンの管轄下に、ガザ地区はエジプトの管轄下に置かれました。国内に逃げてきた難民と西岸住民を合わせた多くのパレスチナ人を抱えたヨルダン政府は、その大部分にヨルダン国籍を与えました。67年の第3次中東戦争でイスラエルが西岸、ガザを占領した後も、西岸のパレスチナ人に与えられたヨルダン国籍は旅券の形で生きており、今も西岸パレスチナ人の15%ほどが持っているとのことです。パレスチナ自治政府の発行する旅券を持っている人の方が多いのですが、外国への渡航者の間ではヨルダン旅券を持つ人の方が多いという調査結果があります。
同じパレスチナ人でも、停戦ラインでエジプトの管轄下に置かれたガザの住民には、ヨルダンによる特典はありません。西岸と分断され、電流柵で囲まれたガザの住民の移動はより厳しく制限されており、ガザから交流プロジェクトへの参加者を迎えたのは2018年が初めてでした。今回、2人目の参加者としてハーデル・アルスラニさんが来日します。
和解の希望、立ちはだかる高い壁
イスラエル・パレスチナ紛争に終止符を打ち、和解へと向かう希望を持たせたのがオスロ合意です。イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の代表がノルウェーの首都オスロで秘密交渉を続けた結果、93年9月のワシントンでの合意締結につながったのでした。イスラエルは武力闘争を続けていたPLOを交渉相手として認めていなかったし、PLOもイスラエル国家を認めていなかったのですから、交渉の席に着いたことが画期的だったのです。
この合意は正式には暫定自治政府原則の宣言と呼ばれ、パレスチナ側に暫定自治政府を設け、自治期間は5年間とし、締結から3年目までに最終的地位に関する交渉を開始する、としています。その暫定自治が始まったのは94年5月。ガザ地区と西岸中央部のヨルダン川に近い都市ジェリコが最初の自治区でした。その年の7月、アラファトPLO議長(当時)がガザ入りしました。自身の出身地ですから「ガザ帰還」と呼ばれ、その時現地で取材した筆者は、PLO戦士らと共に「凱旋」した議長が熱狂的な歓迎を受けるのを目の当たりにしたものです。
自治区は翌95年9月に西岸のナブルス、ヘブロンなど7都市に拡大されました。そして96年1月、西岸地域には珍しく大雪が降る中、パレスチナ自治政府議長と立法府議会の選挙が実施され、アラファト氏を議長とするパレスチナ暫定自治政府が誕生しました。和平交渉のお膳立てができたわけです。
最終的地位協定を目指す交渉は96年5月に始まりました。解決すべき交渉の課題には ●エルサレムの帰属 ●難民の処遇 ●安全保障 ●国境の画定などがありました。そのどれをとっても、簡単に妥協点を見出せるものではありません。イスラエル側には、何十万人というパレスチナ難民が自国領に戻るのを認める気はありません。また、不可分の自国の首都と称するエルサレムは、95年9月のパレスチナ自治区拡大の時も、パレスチナ人居住区の東エルサレムさえ自治区とするのを認めていません。
多難を思わせる前途。それでも暫定自治が実現し、交渉が始まりました。振り返れば、和解と二国家共存という希望を語れるムードは、このころがピークだったのかもしれません。
エルサレム住民の証明を迫られる
プロジェクト参加者の1人、リンダ・アブ・アルハワさんの祖母は、東エルサレムのシェイクジャラという地区に住んでいましたが、ナクバの年にイスラエルによって追われ、西岸に逃れました。そこで生まれたのがリンダさんの母親で、現在は東エルサレムに住んでいます。難民の家族でありながらエルサレムに住めるようになったのは、エルサレム居住権を持つパレスチナ人男性と結婚したからでした。それはよかったのですが、母親を待っていたのは武装警官による不意打ちの家宅捜索。洗濯物入れなどをチェックしては、生活の拠点が実際にエルサレムかどうかを確かめるのです。また、エルサレム居住許可の延長を求めるために毎年、イスラエル内務省に出向かなければならなかったそうで、正式な居住権を得るのに15年の歳月と1万5千ドルかかったということです。
エルサレムは最終的地位交渉で帰属を決めることになっていますが、イスラエル政府は、エルサレムのアラブ色を弱めていくためにパレスチナ人口を抑えることで、イスラエルと一体化した都市としての既成事実をつくろうとしています。
入植者の狼藉、罰せられるのは
既成事実づくりといえば、西岸のユダヤ人入植地はその最たるものです。筆者が現地の取材を始めた1993年から数年間は、入植地の新設、拡張を認めるかどうかがまだ大きな問題とされ、入植者の数も10万人を超えるぐらいでした。それが今や入植地は140カ所以上、イスラエル政府さえ認めていないものは100カ所以上ともいわれ、入植者人口は49万人と言われています。
最終的地位交渉では、パレスチナ国家を目指して国境の画定も課題とされていましたが、まったく話し合われていません。それどころか西岸は入植地だらけで、入植地の安全を保証するための道路や緩衝地帯でパレスチナ暫定自治領域は寸断され(地図参照)、入植地が残る限り領土としての国家は体をなしません。しかも最近では、入植者のパレスチナ人襲撃が相次ぐ事態となっています。
6月21日、パレスチナ自治政府のあるラマラ近郊の村を覆面をした数百人の入植者が襲い、家々や車を破壊し放火してまわりました。数日前に4人の入植者がパレスチナ人に銃撃され死亡したことへの報復だとしていますが、この村は以前からしばしば攻撃、いやがらせを受けていたということです。
西岸のパレスチナ人の間ではこのところ、若者を中心に武装闘争の動きが出てきており、これを抑えようとイスラエル側が軍事作戦を展開し、緊張が高まっています。そんな中で起きた入植者による大規模な襲撃事件。イスラエル治安機関からは、この襲撃を「民族主義的なテロ」とする声明が出されました。ところがこれに対し、イスラエルのネタニヤフ政権を支える極右政党「宗教シオニズム」の党首であるスモトリッチ財務相は「イスラエルの民間人による抵抗を、それがどんなに激しかろうと、アラブ人によるテロと同列に扱うのは不道徳だ」と非難したのです。財務相は入植地の住宅建設などを許可する権限を持ちます。閣僚によるこのような発言は入植者たちに、パレスチナ人への暴力を認めるものと受け止められることでしょう。
その後、襲撃した入植者が捜査の対象になったかどうかのニュースはなく、むしろイスラエル軍による大規模な「対テロ作戦」が実行されました。7月3日、西岸北部ジェニンの難民キャンプをドローンで空爆するなどし、報道によるとパレスチナ人10人以上が殺害され、100人以上が負傷したとのことです。軍はパレスチナ武装勢力が集まる拠点を攻撃したものだとし、銃撃戦でイスラエル側でも兵士1人が死亡したと発表していますが、電気や電話は止められ、道路は掘り起こされるなどインフラが破壊されており、住民たちにとっては集団懲罰のようなものです。
暴力の応酬は武力では解決しないというので結ばれたオスロ合意。その原点から遠く離れてしまった現在の状況の中で、プロジェクトに参加するイスラエル、パレスチナ双方の若者たちは互いにどう向き合うのでしょうか。