「あなたにとって平和とは何ですか?」
これは当NPO法人「聖地の子どもを支える会」が、日本の若者をイスラエル・パレスチナに派遣して現地の状況を学んでもらう「スタディーツアー」や、イスラエル・パレスチナ・日本の若者が共同でボランティア活動などをする「交流プロジェクト」への、参加者募集の際に必ず尋ねる質問です。ふだん突き詰めて考えることの少ないこの問いに対し、応募者の答えは「安心して眠れること」「それぞれが自分の権利を生かしながら幸せを求めて生きられること」「ひとところで安心して日常生活を送れること」など表現はさまざまですが、共通して言えるのは平和の基本的な条件の一つ、「人間の尊厳を脅かす戦争や紛争がない状態」です。
この、日本にいれば普通と言っていい状態は、世界のいろいろな所で当たり前とはとても言えないものとなっています。今年3月のスタディーツアーでは、エルサレムの旧市街近くに泊まっていた宿舎の前で、イスラエル兵が盛んに発砲するのを目の当たりにしたそうです。写真を撮りに走り出ようとする研修生たちを、引率の井上弘子・当NPO理事長はあわてて制したといいます。
こんな話があります。ずいぶん前のことですが、ある中東研究者がヨルダン川西岸のヨルダンとの境界近くを走るバスに乗っていた時、爆発音なのか銃声なのか何かがはじける音がしたので身を伸ばして外を見ようとしたら、乗り合わせていたイスラエル人乗客たちは一斉に身をかがめ、「伏せろ!」と言ってきたというのです。常に危険と隣り合わせの状況に置かれている人々と、そんな経験をすることがほとんどない日本人との対応の違いです。筆者が経験して印象に残っているのは、イスラエル国内の地方のバス停で列に並んでいた時、切符を買っておこうと思い荷物を置いて後ろに並んでいる人に「切符を買いに行く間、荷物を見ててくれないか」と頼んだら、断られたことです。「なんて不親切な」と思ったら、その人いわく「この荷物が爆発物ではないという保証はない」とのこと。これもいつ、どこでテロに遭うかわからないという状況下にある国民の、いわば常識なのでした。
3月に放映されたNHKのBS1「ザ・リアル・ボイス」という番組で、銃の所持規制の是非について語るアメリカ市民の本音が紹介されていました。アメリカではしばしば銃の乱射事件が起きており、オバマ大統領が、銃の所持規制強化が必要だと訴えています。そのような世論が高まって当然だと思えるのですが、番組を見ると大違い。ミズーリ州、テキサス州などの各地の「ダイナー」という庶民的なレストランでお客に尋ねて回る度に、返ってくる答えは「銃の所持は当然」「憲法でも保証している個人の権利(市民の武装の権利)」というものでした。規制に反対する理由は「銃を悪用したり乱射事件を起こしたりするような連中は、どんなに規制されようと銃を手に入れる。法律を守る善良な市民が武器を持てず、危険から身を守ることができなくなるのはおかしい」というもの。「乱射犯人は防備の手薄な所を狙う。みんなが武器を持っていてたちまち反撃されるような所は狙わない」といったことを話す人もいました。
そういえば、パレスチナ人の若者が刃物で襲ってくるテロが頻発しているイスラエルでは、エルサレム市長が去年10月、イスラエル人市民が銃を持ち歩くのは義務だと述べた、と報じられました。だれもが銃を持っていれば、緊急時に警官隊に協力できるからというのです。
イスラエルは、少しでも攻撃を受ければすぐさま倍返し以上の反撃を加える態勢と、周辺アラブ諸国を圧倒する武力を備えています。敵に囲まれ、侵攻をはね返せなければ地中海に追い落とされると、かつて語られたような安全保障上の不安はないといっていいでしょう。だからイスラエルが平和だと言う人は、そうはいないはずです。既に述べたように、この1年余り、刃物を持ったパレスチナ人の若者によるイスラエル人への攻撃が頻発。4月18日にはエルサレムの路線バスが、イスラム過激派組織ハマスによる自爆テロに見舞われました。自爆テロは2004年以来のことです。
人々は被害者としての不安を抱え、怒りを募らせていますが、テロに走るパレスチナ側にも、イスラエルが築いた壁に囲まれ文字通りの閉塞状況への、被害者としての不満と怒りがたまっていくばかりです。その矛先は、まともな戦いなど不可能な中でテロに向かい、イスラエルよる反撃と締めつけの強化につながるという悪循環です。
暴力的な対決の場面があふれる世の中に、ハッと胸を突く光景がインターネットで流されているのを見ました。2013年12月、ウクライナの首都キエフで、ズラリと並んだ治安部隊の前に1台のピアノがポツンと置かれ、男性がたった一人でそれを弾いているのです。親ロシア派の政権に反対するデモが激しくなりだしたころのことで、ネットで世界中に配信された映像を音楽家の坂本龍一さんが東京新聞に紹介したものです。発信したウクライナ人は「優しさは暴力や残虐な行為を壊すことができる」と、感想を述べているそうです。
安全保障が他者の善意に頼れるほど単純なものではないことは、世界のあちこちで起きる争いを見れば明らかでしょう。それでも私たち日本人は、危険への反応力が弱い自分たちを「平和呆け」と卑下しなくてもいいと思います。むしろ、第2次世界大戦後の長い年月、他国・他民族と殺し殺される争いとは無縁だったこと、そのおかげで、いつ攻撃を受けるかわからないという殺伐とした緊張からは遠いことを、ありがたく思っていいのではないでしょうか。戦争ができる国になることで胸を張ろうとするより、武力に訴えずに争いをなくす道を追求し続けることで国際社会に存在感を示せたら、その方が誇らしいことだと思いませんか。
(文 当団体理事 村上宏一/元朝日新聞エルサレム特派員、中東支局長)