▲写真:アイーダ難民キャンプには亡くなった子供たちの名が記されている
スタディツアーから帰国して日が経ってからも、得体の知れない「モヤモヤ」が取れずにいた。
現地から、何か重たい鉛みたいなものを持って帰ってきたような気分でいた。
「平和」と聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?
これは、国内での事前研修でやった内容のひとつで、スタディツアーが終わった今でもなぜか印象に残っていた。
もちろん、答えは人それぞれ。
「人権が保障されている状態」「戦争がない世界」と答える人もいれば、「家族や友達と何気ない会話をしている時間」と答える人もいた。
全て正解だろう、「平和」の考え方なんて人によって違うのは当たり前だ。
みんなが平和を願えば、世界は良くなるに決まっている、と思っていた。
現地でも、パレスチナ人の考える「平和」とイスラエル人の考える「平和」を間接的に知る機会があった。
パレスチナ人と話していても、イスラエル人と話しても、ひしひしと伝わってくる、強く「平和」を望む気持ち。
しかし、聞いてみると、彼らの望む「平和」の定義が異なり、それを求める過程で対立を生んでしまっていることがわかった。
「平和」を願う気持ちさえあれば、物事が悪い方向に進むことはないだろう。
そんな風に考えていた私にとって、そのような対立が起こってしまうことを知れたのは大きかった。
また、パレスチナ人が腐敗するPLO(パレスチナ解放機構)に対して半ば諦めかけてしまっていて、
ますますイスラエルが勢力を広げていることを実際に目の当たりにしたことも衝撃的だった。
「どこに妥協点があるのだろうか」「パレスチナはこのまま飲み込まれてしまうのではないか」
疑問は尽きず、納得のいく回答を得ることができないまま帰国した。
今思うと、ずっと私の中にあった「モヤモヤ」は、
自分の仮説が本当に仮説でしかなかったことの悔しさと、解決の兆しが全く見えないことからくる無力感が原因だったのかもしれない。
「平和」を手に入れるために良かれと思ってしていることが、相手を傷つけてしまっていること。
歴史的背景や宗教的背景も思っていたより深く、複雑に関わっていること。
第三者の自分にできることなんて何もないんじゃないか。
帰国して事後研修に参加するまで、ずっとそう思っていた。
しかし、日にちが経ち、事後研修を終えた今は、大きいことをするのではなく小さなことから始めることを大切にしてもいいのではないか、
悲観的になるよりも、草の根から「人」に期待してもいいのではないか、と思えるようになった。
確かに、目に見える変化を起こすには大きな組織が干渉したり、政治においてに政策や制度を改める必要があるかもしれない。
しかし、第三者という立場から、イスラエル・パレスチナの学生に話し合う場を設けたり、子どもたちの教育を支援することは、平和の種を蒔いているようなものではないかと思う。
変化は見えにくいし、時間はかかるかもしれないが、それが花咲く時が来るような気がする。
モヤモヤが少しずつ解消されてきた私も実は、その種の一つになった気持ちでいる。
せっかくこんなにたくさんの人に出会い、たくさんの人の想いに触れることができたいい機会に恵まれたのだから花を咲かせたい。
そんなことを思わせてくれるようなスタディツアーだった。
(文 古川 遥/
2019年スタディー・ツアー参加者、大学1年生)