村上 宏一(当法人副理事長・元朝日新聞中東アフリカ総局長)
極右政党を取り込んだイスラエルのネタニヤフ政権が、主な政策目標の中で最初に取り組んだ司法制度改革の目論見が、国民の猛烈な反発を受けて挫折しました。司法制度の改革? 日本では「敵基地攻撃の能力を保有する」という、憲法に抵触するのではないかという政策が国会審議を経ず、閣議決定ですまされても、司法の場で問題にされていません。イスラエルではなぜ争点となり、なぜ国を挙げての論争を呼んだのか。背景を探ってみます。
「最右翼政権」の最優先政策
ユダヤ至上主義的主張が強い極右会派を含むイスラエル史上最右翼といわれる政権が発足したのは昨年12月29日でした。それから間もない今年の1月4日、レビン司法相(第1党リクード)が司法改革案を発表しました。連立政権を組む時に各会派間で合意した優先政策の一つであるのは確かです。改革案の内容の主なものは:
- 最高裁判事の選任に当たる「司法選抜委員会」の人数を、現在の9人から11人に増やす
- 現在の最高裁判所判事3人、弁護士協会・国会議員・閣僚各2人という構成を、議長を務める司法相をはじめ閣僚3人、国会の司法関連委員会の長3人、最高裁から長官と判事2人の計3人、司法相選任の民間人2人(1人は弁護士)とする
- 最高裁は現在、法律や政府の政策について、国家基本法に照らして無効にできる司法審査権を持つが、国会の多数決でこれを取り消すことができるようにする
などです。このような改革案が出された背景はこうです。
司法選抜委員会による最高裁判事の指名には現在、9人のうち7人の賛成が必要とされています。つまり判事の指名には、3人が反対すれば認められないという強い拒否権を選抜委員会が持っており、右派政権内には、民主的な選挙で選ばれた立法府や行政府とのバランスが取れていないという不満があります。そして、左派色の強い最高裁が判事の任免を牛耳って国政に過度の影響を及ぼしている、と見ているのです。
改革案のような構成に変えれば、行政・立法府出身のメンバーが多数を占め、司法相が指揮を執って最高裁側の力を抑えられるようになります。
チェック&バランスの危機
ことは判事の任免だけの問題ではありません。前述した最高裁による司法審査権が骨抜きにされかねない、という問題です。イスラエルには明文化された憲法はなく基本法がその役割を果たしており、その中で、最高裁が立法府による法律や行政府による政策を審査し、基本法に反すると判断すれば法律を破棄したり施策を差し戻しさせたりできる、としています。人権を擁護するために欠かせない、司法によるチェック機能とみなされてきたのです。
しかし、特に右派・宗教政党の政治家やその支持者たちは、ユダヤ人入植地の拡大の制限とか、超正統派と呼ばれる宗教勢力の自治制限とかの司法判断に対し、左派や世俗派に偏っていると反発してきました。去年の選挙を受けての右派政権成立は、反撃のチャンスととらえたのでしょう。連立合意の中で、優先政策として掲げられたのが「宗教政策のユダヤ教色強化」「司法改革による立法、行政に対する司法の統制力の抑制」「ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地拡張、西岸の併合」などでした。そして政権が発足して早々に打ち出したのが、いわば政策推進の邪魔になる司法権の抑制です。
ところが、この試みに対する抗議の動きは素早く、激しいものでした。司法相が1月4日に司法改革構想を発表すると、7日には、イスラエル第2の都市テルアビブで2万人の抗議集会が開かれました。すぐに動き出したのは、「最右翼政権」の誕生に危機感を持った人々です。そもそも、汚職容疑などで起訴されているネタニヤフ氏が首相に返り咲いたことにも反発がありました。集会で掲げられたプラカードの中には、英語のPrime Minister(首相)をもじってCrime Minister(罪人大臣)と書かれたものもありました。
司法改革派が好んで口にする言い分は、民主的に選出された議員から成る立法府と、その多数派に支えられる行政府の権限が、偏向した判事たちが優位を保つ司法府によって抑制されるのはおかしい、というものです。これに対し反対派は今の内閣について、極端な考えを持つ少数勢力が連立維持の死命を制して発言力を握っており、国民の多数を代表するものではないとして、司法改革は「クーデターだ」とまで呼んでいます。
抗議集会やデモは毎週末の土曜日に行われ、全国に広がって規模もどんどん膨れ上がりました。2月中旬に法案が国会の委員会で可決され本会議の審議に回されると、抗議行動はさらに熱を帯びて3月25日には、反対を叫んだ市民の数は主催者側の発表によると全国で63万人にのぼりました。イスラエル史上最大の動員数です。
軍事部門からまで抗議の声
このような情勢の中、イスラエルの警察を管轄する国家安全保障相を任されたベングビール氏が1月3日、エルサレム旧市街にあるイスラム教の聖地「ハラム・アッシャリーフ」を訪れました。この場所はユダヤ教徒にとっても「神殿の丘」と呼ばれる聖地ですが、聖地管理の取り決めで礼拝ができるのはイスラム教徒のみとなっています。彼が党首を務める「ユダヤの力」は、ユダヤ教徒にも礼拝を認めるべきだと主張しているのです。
この聖地は2000年9月に、当時は野党だった右派「リクード」のシャロン党首が訪問を強行してパレスチナ人の反発を招き、前述の第2次インティファーダにつながった因縁の地です。ベングビール氏の行為は、挑発的な危険なものと言えます。
注目すべきなのは人数だけではありません。委員会での法案可決が迫った時、医療や教育関係者たちがストを呼びかけたほか、軍の元参謀総長が国会周辺のデモを呼びかけました。さらに予備役兵が首相府の前でハンガーストライキに入ったり、防衛産業の従業員たちが就業拒否をしたりしたのです。治安を最重要課題とするイスラエルで軍事関係者まで立ち上がった影響は大きいものでした。そのメッセージは「民主主義なしに国の安全はない」というものです。この流れを受けて国防相が3月25日、改革法案の審議中断を要請しました。
閣内からの造反に、ネタニヤフ首相は翌日、国防相の更迭で応じましたが、この処置がさらに反発を煽りました。各地で道路が封鎖される騒ぎとなり、労組がゼネラルストライキを宣言、空港の職員ストで空の便が止められる事態に。しかも財界人まで「恐るべき混乱から国を救うため」と、反対行動に加わったのです。そして3月27日には、ヘルツォグ大統領が立法に向けた手続きを停止するよう要請。大統領に命令権はありませんが、ネタニヤフ首相はこれに応じて法案の審議を停止しました。
停止の理由は「反対派との妥協を探る対話のため」というもので、審議を1カ月延期するとしています。反対派からは、法案の撤廃まで抗議行動を続けるとの声も出ていますが、「延期」と表明した裏には、ベングビール国家安全保障相からの圧力があります。ベングビール氏が所属する極右会派「宗教シオニズム」が国会(120議席)に占める14議席は、合計64議席でなんとか国会の過半数を握る連立政権の維持には欠かせない勢力です。司法制度改革反対派が指摘する「少数勢力が発言権を握る内閣」であり、「司法改革から撤退すれば連立を離脱するぞ」という脅しが効いているわけです。それをなだめるかのように、ネタニヤフ首相は治安警察的な組織の創設を発表し、ベングビール氏に管轄させると約束しました。審議停止は、今のところまだ続いています。
現内閣の連立合意の優先政策には「ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地の拡張、あわよくばイスラエル領への併合」というのもあります。極右会派が強く主張しているもので、少数派の圧力がこの政策にも影響を与えるのか、目を離すことができません。