▲写真:エルサレム旧市街から望む金のドーム
私の旅は、国連難民高等弁務官事務所のインターンに端を発する。グローバルな環境で働くことばかり夢見ていた当初の私にとって難民問題とは「題材」でしかなかった。しかし働くうちに難民が直面する複雑な問題や援助が足りていない現状を知り、この目でいずれ難民問題を捉えたいと思い始めていた。そしてアメリカ合衆国大統領がUNRWAへの拠出金をカットすることを決定したとのニュースを見て、イスラエルスタディツアーへの参加を決意した。
訪れたパレスチナ難民キャンプは、建設中なのか崩れかけているのか分からないコンクリート群の町だった。世界規模で見ても、テント生活を強いられているような難民は実際少数派だ。そのため難民キャンプがコンクリートでできていることはそう珍しくないはずだ。しかし西岸地区近郊のパレスチナ難民キャンプは違うと感じた。数十年かけて数世代に渡り発展してきた巨大な町となっており、それはすでに誰かの故郷となっていた。
帰るはずだった故郷がオシャレで綺麗なユダヤ人街となったいま、この町に住むパレスチナ人はどのように考えているのだろうか。
難民キャンプに住む歳の近い青年に話を聞く機会があった。奨学金をもらいなんとか教育を受けることができ、ロシアの大学へ進学したという。車で行けば数十分の場所にある先祖の故郷は、パレスチナ人立ち入り禁止のユダヤ人入植地になっており、彼自身訪れたことがないそうだ。誰もが貧しい暮らしを強いられているキャンプでは未来がない。そう言う彼にとって故郷奪還の気持ちなど毛頭なく、イスラエルを去り海外で生活することが夢だと語る。
このように政府の嫌がらせに嫌気がさし、出て行く人もいる。一方で、理不尽な支配に振り回されながらもこの地で足を踏ん張る人がいることも知る。
それはエルサレムで2泊を過ごしたホストファミリーのお母さんが教えてくれた。彼女のようなパレスチナ人が家や土地を持ち続けるためには、例えば継続的に光熱費等を払い続けている証明が必要である。ほかにも外国に長期間滞在していないことなど制限が多くあるほか、子どもの出生届について親の出身地を証明することが条件づけられている。イスラエルは、制度を煩雑化することで、パレスチナ人がイスラエルに住むことを諦めるように仕向けているようだった。
国家という強大な存在に排除されようとしている人はきっと無力感を抱いているに違いない。そう思ったがイスラエル政府の陰湿な手口にも屈せずに留まり続ける人に手を差し伸べる団体がいる。セイントイヴ協会という、弁護士のNGOだ。それは家屋を破壊されたパレスチナ人のために抗議し、家族が不利な戸籍にならないように登録を手伝う団体だ。ユダヤ人とアラブ人の弁護士が薄給ながらも一致団結してパレスチナ人のために日々戦っている。
私はイスラエルとパレスチナを思うと今でも晴れた気持ちを持てない。このツアーでは、イスラエルに住むユダヤ人のアイデンティティを強調する施設も巡る。 ホロコースト記念館や、入植者の勇姿を伝えるグッシュ・エツィオン入植地記念館を訪れると、ユダヤ人が他の人種を過剰に敵対視し防衛線を張ることも、頷けてしまうのである。
しかし、この旅で出会った人々の人生に思いを馳せると、憎悪の連鎖をそのままにしておくことはできない。私に何かできるだろうか。この問いに答えられないまま私はサラリーマンとして4月から働くことになった。今の私には何もできないかもしれないが、少なくともこのツアーを開催しているNPOやセイントイヴ協会の弁護士たちの日々の戦いが、イスラエルに住む人々の一人一人の人生にインパクトを与え、それが徐々に広まっていることを確認することができた。
権力者だけが世界を変えるわけではないことを、このツアーで学ぶことができたと思う。
(文 塚本 麻衣/
2019年スタディー・ツアー参加者、大学4年生)