村上 宏一(当法人副理事長・元朝日新聞中東アフリカ総局長)
今から27年前、1995年の11月4日、イスラエルのラビン首相(当時)が暗殺されました。93年にイスラエル・パレスチナ間で結ばれた和平合意をめぐり国論が割れる中、和平集会の会場で和平に反対する宗教右翼の若者に銃撃されたのです。
和平集会の場で撃たれる
和平集会でラビン首相はめずらしく、合唱に合わせて壇上で歌っていました。そして会場を去ろうとしている時に、イガール・アミルという当時25歳の男にピストルで撃たれました。銃撃という衝撃に、国民がニュースに耳をそばだてて間もなく、搬送先の病院で亡くなったという知らせが流れました。
集会があったテルアビブの広場には、何十万人ともいわれる人々が次々と集まり、無数のろうそくに火がともされました。多くの若者たちが暗殺現場で、街頭で、家の前で、自分たちの未来をどうすべきかなどの議論をする姿が、何日も見られました。
このころのイスラエルは、ヨルダン川西岸とガザの占領地を返還してパレスチナ側に自治を認め、やがては国家としてイスラエルとの二国家共存を目指すというオスロ合意をめぐって賛成派、反対派が鋭く対立していました。和平交渉は、治安維持の権限や聖地エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権など様々な問題で進展せず、占領地全体の中の限定された自治領域は一向に拡大されないまま。不満を持つパレスチナ側の過激組織による、イスラエルのバスなどを狙った爆破テロが相次いでイスラエル側の世論も硬化していました。
和平反対派のデモが激しさを増し、棺桶をかかげて街頭を練り歩く光景も見られ、治安当局に首相が襲われる懸念を抱かせる雰囲気になっていたのです。
テルアビブでの和平集会に際して、ラビン首相は防弾チョッキを着るよう勧められたものの、同胞に撃たれるなど考えたくなかったからか、首相は断ったと、後に伝えられました。
和平つぶしに効果的テロ
首相を撃った犯人は、正統派と呼ばれるユダヤ教徒の家庭に育ち、主に宗教的な理由からパレスチナ和平に反対していました。調べに対し、ユダヤ教の律法によれば「ユダヤ人の土地を敵に渡す者は殺すべきことになっている」という趣旨のことを述べたそうです。1967年の第3次中東戦争で占領したパレスチナ人が住んでいた土地を返還し、平和共存しようというのが和平合意の目標なのに、西岸は神がユダヤ人に与えた土地であるという旧約聖書の記述を盾に、渡してはならない土地だというわけです。
反和平派のイスラエル国民の反対理由は、前述の宗教的なものと、隣にパレスチナ国家ができたら治安を脅かされるというのが主なもの。ラビン首相の暗殺は、和平交渉を妨げたい陣営にとっては結果的に好都合な、まさに政治的テロでした。パレスチナ側の和平反対派が爆弾テロを仕掛けてくるのに対し、それで和平交渉を中断するのでは反対派の思うつぼだと批判をはね返した、腹の座った指導者が消え、強硬な世論に乗って政権を取る政治家が選ばれるようになったのですから。
主要国から要人が弔問に
暗殺から2日後の11月6日、ラビン首相の国葬が営まれました。その前夜、遺体が安置された国会議事堂を訪れた人の列は議事堂がある丘のふもとまで延々と続きました。筆者の事務所兼住宅からは谷を挟んだ議事堂周辺の様子や、谷を走る道路を通る外国要人の車列などが見えました。
葬儀には、和平交渉の仲介役を果たしていた米国から現職だったクリントン大統領夫妻や国務長官、元大統領のカーター氏や父ブッシュ氏、それに多くの上院議員などが大挙して訪れた。また、シラク仏大統領や英・独・イタリア・カナダの首相などG7と呼ばれる主要7カ国の首脳(日本からは当時の河野洋平外相)が参列。アラブ諸国からも、いち早くイスラエルと国交を持ったエジプトのムバラク大統領、ヨルダンのフセイン国王(共に当時)も訪れるなど、世界中の要人が顔をそろえました。
そこには、イスラエルとの関係への配慮や中東和平に対する姿勢の示し方といった外交的意味合いもあったでしょうが、弔問外交の場としてではなく、文字通りに故人をしのぶ気持ちで葬儀に参列した首脳も多かったでしょう。クリントン大統領などは、和平交渉仲介での接触を機に、ラビン首相に敬意を込めた親愛の情を抱いていたように見受けられました。
任期最長の元首相は被告人
イスラエル国内では、ラビン首相の和平政策に反対し、反発する人ももちろんいました。しかし、政治的には敵視していたとしても、それを暗殺という手段で除くことに衝撃を受けた人は多かったのでしょう。国葬を巡り国論が二分するという状況ではありませんでした。とはいえ、前述した通り和平交渉を進める首相への反対デモが険悪な様相を強めていた事実に変わりはありません。暗殺を懸念する空気があったからこそ、治安筋は首相に防弾チョッキの着用を勧めたのでした。この険悪な空気を反政府集会などでの演説で煽ったとしてラビン夫人などから批判されたのが、野党だったリクードの党首ネタニヤフ氏でした。そのネタニヤフ氏が翌96年6月、新たに導入された首相公選制の選挙で、ラビン氏の和平路線を継承すると公約したペレス氏に、1%という僅差で勝利したのです。
ネタニヤフ首相が率いるリクードを軸にした政権は、和平交渉を進展させるどころか、将来のパレスチナ国家の領土となるべきヨルダン川西岸のユダヤ人入植地の拡張を進めるなどの政策をとりました。ネタニヤフ政権は96~99年、2001~06年、09~21年と5次にわたり、首相在任期間は通算15年。
最長を記録したのです。その元首相は収賄、詐欺、背任の罪で訴追され、被告の身となっています。
ところで、イスラエルでは11月1日に総選挙の投票がありました。2019年4月以来、3年半の間で実に5回目の総選挙でした。各政党の得票率に大きな変化は見込めず、新政権作りの交渉が難航するとの予想が多かったのですが、結果は反アラブでユダヤ色を強調する宗教的極右を含む右派が国会議席(定数120)の過半数を制し、ネタニヤフ氏の首相復帰が確実となりました。パレスチナ和平の進展は望めないどころか、暴力の応酬の激化が懸念されています。